- 10月4日(日)
- 一般発表
- 14:10−14:50
- 〈オンライン2〉芸術史
戦後日本における同時代アジア美術の受容と冷戦─1950〜70年代を中心に
鍵谷 怜(東京大学)
1990年に国際交流基金アセアン文化センターが設立され、以後90年代を通じて ASEAN 諸国のみならず、広くアジア諸地域との同時代文化交流が行われていった。特に美術の分野においては、それまで注目を集めることのなかったアジアの近・現代美術を日本に紹介する展覧会が各地で開催された。しかし、こうした「アジア美術」という枠組みでの展覧会は、それ以前にも1979年の「アジア美術展」(福岡市美術館)のように、少ないながらも行われてきた。したがって、アジア地域の美術と日本との関係を考えるうえで、90年代以前の動向についてもその意義を明らかにする必要がある。本発表では、そうしたアジア美術に関する展覧会について、開催経緯や開催意図、出品作品の傾向の点から再検討し、90年代の「アジア・ブーム」以後におけるそれと比較する。これにより、戦後日本においてアジアの同時代美術がどのように受け取られていたのかを、当時の国際情勢と関連させながら明らかにする。
本発表で主に扱うのは、「アジア青年美術家展」(1957)、「韓国現代画家展」(1968)、「アジア美術展」(1979, 80)である。アジアの美術作家の作品を展示した戦後初の展覧会は、1957年の日本文化フォーラムが主催した第1回アジア青年美術家展である。これは第 2 回展から国際青年美術家展となり、展覧会名から「アジア」が外れるが、1969年の第5回展は「アジア・日本展」として開催された。1968年の東京国立近代美術館での韓国現代画家展は、65年の日韓基本条約の締結を受けたものである。また、1979年のアジア美術展では、前年の日中平和友好条約の締結を受けてインド・中国・日本の作家を扱っている。翌年に同展第2部として、参加作家の出身国の範囲を拡大した。
本発表では、1950年代から70年代にかけて、日本で行われた同時代のアジア美術に関する展示は、政治的背景およびその変容と密接に関連していたこと、そして、日本でのそれらの受容も、政治情勢に大きく左右されていた側面を明らかにする。とりわけ、文化自由会議の日本支部である日本文化フォーラムが主催したアジア青年美術家展は、冷戦体制下での世界的な文化戦略と不可分であり、必然的に政治性を帯びたものである。それゆえ、日本やアジアの美術作品の独自性を強調しながら、政治的主張をはらむ前衛美術を排除する傾向が見られた。こうした政治性の排除は、韓国大使館が作家選定に関与した韓国現代画家展でも同様であり、70年代までの基本的傾向といえる。参加国・地域側が出品作家を選定することが多かったこれらの展覧会による各地の美術の紹介は限定的で、日本の美術に与えた影響も大きくはなかった。しかし、アジア美術展については、当初はそれまでの展覧会の形式を踏襲するものであったが、その後引き続き福岡市美術館がアジアの美術を精力的に紹介したことで、90年代の「アジア・ブーム」を準備するものへと変化した。これは、世界的な非欧米の美術に対する関心の高まりと並行したものであり、ポストコロニアリズムの視点も加えられたことで、政治性をはらむ作品の出品も増加した。
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