- 10月4日(日)
- 若⼿研究者フォーラム
- 12:45−13:15
- 〈オンライン2〉現代美術1
「具体美術協会」草創期における前衛書の受容
橋本 紘明(大阪芸術大学大学院)
「具体美術協会」(以下、「具体」と略記する)の活動はこれまで、西洋における同時代の美術の動向との関連において評価がなされる傾向が強かった。たとえば、当時の美 術雑誌『美術手帖』や『芸術新潮』などにおいて「具体」は、アクション・ペィンティング、ハプニングなどの言葉と関連づけて紹介されることが多かった。近年の「具体」研究においても、1956年以降に「具体」が展開した美術運動と、西洋における美術運動の「国際的同時性」について言及されることは多いが、「具体」の成立にかかわる日本独自のコンテクストが考慮されることはまれである。とりわけ、結成前後の時期の「具体」が前衛書との間で取り持った関係については、これまで必ずしも十分な議論や検証がなされてきたとは言いがたい。
草創期「具体」と最も交流が盛んであったグループが、前衛書道集団「墨人会」である。彼らの交流の様子は、「墨人会」のリーダー的立場にあった森田子龍(1912-1998)が発行していた『墨美』や機関誌『墨人』(1952-)に確認できる。後に「具体」のリーダーとなる吉原治良(1905-1972)は、1951年には既に『墨美』に寄稿しており、1952年には南天棒(1839-1925)の書をめぐって「墨人会」と座談会を開いている。この座談会には、後に「具体」会員となる嶋本昭三、村上三郎、白髪一雄も同席していた。この座談会直後に、森田は「墨の飛沫」に関する実験的な作品を制作している。座談会とこの森田の作品は、嶋本や村上のその後の作品制作に強い影響を与えた。
本発表では、まず、「具体」が当時どのような日本の文化的コンテクストの中で結成されたのかを把握するために、「具体」草創期(1951-1956)の動向に焦点を合わせる。次に、「墨人会」周辺で発行されていた機関誌『墨人』(1952-)、雑誌『墨美』(1951-1981)を取り上げ、「具体」と前衛書家たちとの交流の実態を明らかにする。最後に、「南天棒の書」についての座談会を取り上げ、その後制作されたいくつかの作品に即して「具体」の作家らにおける「書」の受容のあり方を検証する。
吉原がきっかけとなって「具体」のメンバーは前衛書家と交流を持つようになり、そのなかで「書」はモダン・アートと肩を並べる存在として認知されていった。それは「具体」の機関誌創刊号の「挨拶」に「視覺藝術の全般にわたつて例えば書、生花、工藝、建築等の分野にも友人を發見したいと思つています。」という言葉が出てきていることからも窺える。しかし、こうした「具体」と「墨人会」の活発な交流は 1956年に終わりを告げることになる。1956年の「具体美術宣言」には、「書」という言葉は見られなくなり、それに取って代わるように、アンフォルメル、ダダ、オートマティズムなどの言葉が並ぶようになる。そこには、西洋の美術の動向を強く意識する「具体」自身の姿勢の変化が窺える。
プログラム一覧へ