- 10月3日(土)
- 若⼿研究者フォーラム
- 15:50−16:20
- 〈オンライン2〉美学2
美的義務論における”Why be aesthetic?”という問い
板野 誠(東京藝術大学)
本発表では、“Why be aesthetic?”すなわち「なぜ美的であるべきなのか」という問いに取り組む。その答えに接近するため、「美的義務」と呼ぶべき論題についての議論を整理する。優れた芸術作品や美しい景観を維持するために社会は様々な法律や条例を定め、これを犯す者に制裁を与える。かくして、美的なものは義務論的なものと密接なかかわりを持つように思われる。「焼け落ちつつある美術館から、フェルメールの傑作と守衛のどちらかしか助け出せないとしたら、どちらを助けるべきか」という「燃え盛る美術館のケース」(の変種)において生じる葛藤が真正であるならば、美的な義務は道徳的な義務と同様、確かに存在するといえよう。しかし、ここから更に次のような問いが生じる。そこまでして――時に倫理的な振る舞いと衝突すらして――なぜ美的であるべきなのか。(Why be aesthetic ?) 手始めに、この問いによってそもそも何が意味されているのかを明確にする必要がある。
倫理学における同種のより伝統的な論題であるところの「なぜ道徳的であるべきなのか」(Why be moral ?)という問いについての整理を参照するならば、この問いは以下三通りの、より明確な仕方で述べなおされる。すなわち、(1)美的なものを気にかけなくてもよいという主張、(2)美的なものを気にかけるべきだがその理由はないという主張、(3)美的なものを気にかけるべき理由は何かという問い、以上の三つである。本発表では、(1)と(2)の主張が誤りであると示した上で、(3)の問いに答える。
(1)の主張は四つの類型に分けられる。それらは、義務は(a)普遍的である、(b)合理的な原理に基づく、(c)自己利益の問題ではない、(d)実践理性の必然的帰結に基づくという見解にそれぞれ基づいている。本発表ではこれらの見解に対して、「義務は個人の集合である共同体が公に共有する信念に基づく」という見解を採用し、(1)の主張の誤りを示す。
(2)の主張を最も説得的に論拠づけるのは、“Why be moral?” 問題における最大の争点の一つというべき「プリチャードのジレンマ」である。このジレンマは、道徳的理由が存在するとすれば、それは道徳の最終的価値か道具的価値に基づくはずであるが、前者の見解は循環的説明に陥り、後者の見解は道徳をそれ自体としては重要でないものと見なしてしまう、というものである。本発表ではこのジレンマの美的ヴァ―ジョンを定式化し、回答として次のように主張する。すなわち、「美的なものを気にかけて行為すべき理由はなにか」という問いへの答えは、「それが美的によい行為だからだ」というものである。この明らかな循環はまさしくジレンマの一角と見なされるものであるが、これが実のところ無害な循 環であり、美的な義務ないし規範についての説明を破綻させないと示すことによって、ジレンマは解消される。そして上記の回答は、そのまま(3)の問いに対する答えとなる。
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