- 10月3日(土)
- 若⼿研究者フォーラム
- 17:00−17:30
- 〈オンライン1〉美学1
今道友信の「超越」論に見る「東洋」と「西洋」
王 萍(重慶大学)
本稿は現代日本の美学者、今道友信の美学における最も中心的な概念——「超越」をめぐって、今道の「超越」論への東洋と西洋の影響を明らかにする試みである。「超越」は思想を貫いたものとして、極めて重要だと今道は考えている。今道によると、美は真、善を超える最高の価値であり、存在を超えるものとして存在そのものの彼方にある。そういう意味で、今道の美学における「超越」は、精神が作品から価値の方へと登高し、最高の美の輝きに出会うということである。
一方、今道は孔子と荘子の思想を「超越」論という形にまとめている。しかし、このような斬新な解釈は果たして孔子と荘子が世間に伝えようとする本意か。それは西洋の「超越」論から影響を受けているか。今道はいかにして、自分の「超越」論を築いたか。そうした発想により、本稿の目的は、今道の「超越」論を中心に、そこに見られる東洋と西洋の文化を解明することにある。
まず、今道が述べた孔子と荘子の思想を整理していく。今道によると、孔子の「詩に興り、礼に立ち、楽に成る」は詩から礼へと、礼から音楽へと精神が存在そのものへ登高するという芸術段階説を示している。また、荘子の「人籟」「地籟」「天籟」は精神が日常的世界を超え、存在の根拠としての無へ超越し、最後に絶対と一つになるという形而上学を示している。
孔子と荘子の思想を整理することによって、以下のことが分かった。超越を実現し、精神が体験したものなら、孔子において「魅惑」であるが、荘子において「エクスタシス」である。次は、それらはプラトンの「狂気」、プロティノスの「エクスタシス」と通じるところがあるかどうかを明確にすることによって、今道の「エクスタシス」観の概要を描き出す。
そして、荘子の「超越」論において、美は一者との合一であり、一者は存在を超える無の彼方にあるものと考えられる。しかし、中国の古典哲学では、「一者」のかわりに、「太一」が使われている。「太一」を「一者」と考える今道はプロティノスの「一者」から影響を受けたことを明らかにする。
また、荘子の「超越」論は光を頂点とする形而上学と思われる。それは、プラトンに始まり、プロティノスで展開され、中世で集大成された「光」の哲学に関係している。さらに、日本神話に見られる光への憧れも日本伝統文化の中で生まれ育ってきた今道に何らかの影響を与えた。「超越」論における光の問題を考察する。
最後に、今道が西洋の古典美学を取り入れて東洋の古典の価値を再認識したことを指摘し、すべては形而上学と神学を基盤としていた今道ならではの解釈であることを論じる。今道が東洋と西洋の文化を往還することによって、独特な「超越」論を築き上げたことを明確に示す。
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