- 10月3日(土)
- 一般発表
- 14:05−14:45
- 〈オンライン3〉映画・映像
初期映画における粉の機能について
―白人/黒人の人種的二項対立を超えて―
西橋 卓也(神戸大学)
リュミエール兄弟による『塀の取り壊し』(Démolition d’un mur, 1895)をはじめとして、初期映画期(1895- c.1906)において粉の描写が登場することは決して少なくなかった。スクリーン上で飛散する粉塵はそれ自体スペクタクルとして当時の観客に受容されており、このことはダイ・ヴォーンが「自生性」という概念で指し示した映画の特性から理解できるだろう。ヴォーンは、映画において呈示されている主題よりも、波や風、煙など偶発的にカメラが捉えた自然現象こそが当時の観客を魅了したとし、これら生命を持たないものが自己表現に参加することを「自生性」という概念で指し示している。だが、初期映画における粉の描写は、上述した風や煙と並んで、「自生生」のバリエーションのひとつとして捉えられることが多く、こうした議論では粉という物質の特異性が看過されているように思われる。本発表では、今まで省みられことの少なかった粉の多様な機能に着目することで、粉が身体表象や映画メディウムと取り結ぶ関係の一端を明らかにすることを目的とする。
こうした問題背景を踏まえ、本発表では初期映画において粉それ自体がもつ流動性などの物質性に注目する。初期映画においては、粉が皮膚に付着し、皮膚の色が変容する描写が多く描写されていることから、粉の流動的な物質性を取り扱った映画が数多く見られる。たとえば、『煙突掃除人と製粉業者』(The Chimney Sweep and the Miller, 1900)や『更衣室の覗き魔』(Peeping Tom in Dressing Room, 1905)などの映画においては、なんらかのやり取りを経て白人/黒人の身体に煤や小麦粉などの粉が付着することで、皮膚の色が白から黒へ、黒から白へと変容を遂げる描写がみられる。このように黒人から白人へ、白人から黒人へ身体が変容するかのような描写は、ボードヴィルのブラックフェイスに源流を持つギャグとして当時受容されており、それゆえ、こうしたギャグは人種表象の観点から批判的に検討されてきた。
だが、発表者は初期映画における粉の描写はこうした人種的な二項対立には還元することのできない側面をもつと考える。『煙突掃除人と製粉業者』においてスクリーン一面を覆うようにして粉塵が飛散する映像は、粉それ自体の物質性を現前させ、そのことでスクリーンの存在を観客に意識させるような自己言及的な機能をも有しているのではないか。あるいは、『朝風呂』(A Morning Bath, 1896)で映されている、黒人の赤ん坊が石鹸粉で洗われて白く変容するようすを、エジソン社による当時の宣伝文では、自社の映画フィルムが明暗のコントラストを鮮明に映し出すことのできる証左として紹介している。つまり、粉によってもたらされる黒から白への流動的な変容は、フィルムというメディウムとの関係のなかで意味を帯びていたのである。こうした粉の物質性に着目する本発表は、近年盛んに議論される「モノ」をめぐる理論へと映画を接続し、映画メディウムの捉え直しをめぐる議論の一助となることが期待される。
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